Lara Konrad × Chiyonori Kitamura (日本語訳インタビュー)

ドイツ在住の詩人Lara Konradとの対談を翻訳者に日本語に訳してもらったので、ちょっと自分の言葉がぎこちないです。笑

英文は下記を参照してください。

https://www.coeval-magazine.com/coeval/chiyonori-kitamura

 

誰かと(友人であれ見知らぬ人であれ)会話を始める、そのほんの少し前に、相手の思考に完全に心を奪われていた──そんなことは、そうそうあるものではない。

だからと言って、「この世界に生きるほとんどの人が凡庸だ」と言いたいわけではない。むしろ、多くの人はある程度予測可能であり、だからこそ、互いにいる時間の中で、私たちはいつもどこか記憶喪失のような状態になってしまう──そんなふうに思う。

でも、それとは反対に、私は確信している。

私たちの多くは、膨大な過去のプールと、その果てしない反映の中を泳いでいるのだと。

ただ、それを「本当に聞く」ことがないだけなのだ。

その沈黙こそが、私を無感覚へと眠らせてしまう。

結局のところ、私たちは皆、同じような人生を生きている。

だからこそ、一番面白いことは──それについて語り合うこと、なのかもしれない。

東京を拠点とするアーティスト、Chiyonori Kitamura(北村千誉則・きたむらちよのり)とのインタビューは、まるで黒魔術師に出会ったかのような思いがけない体験だった。正直、もっと時間をかけてもう少し根気強くインタビューを続けたかった。Chiyoは日本文化の独特のイデオロギー、現在の彼の健康状態や新しい依存関係について端的かつとても誠実に語り、どんなに小さいことも大切といった話しぶりをした。こうした彼の振る舞いに私は時折、子供のような好奇心の高まりで圧倒された。(これには、私が日本文化へ生来のこだわりを持っていることも多少は影響しているが、彼が日本について触れたのはこのインタビューのかなり最後のほうだ。)

つまり、彼のすべてを知りたくなったのだ。

大体の事柄にほとんど興味をなくしたChiyoは架空のアーティストと彼らの作品を紹介する『uirngallery』というインスタグラムのアカウントを開設。これに続く新たなプロジェクトとして、『detollnalica』や別のインスタグラムのプラットフォーム、人の一挙一動を撮らえた『@buh___bye』(その後、http://modes.vuがこれを写真集として発行)を立ち上げ。以下、かなり長時間にわたったインタビューだったが、彼は依然として謎に包まれている。

でも、こんなインタビューの出だしだっていいと思う。

Lara

しばらくの間、『uirngallery』の名前のもとインスタグラムで、架空のアーティストを創り出したわよね。 このプロジェクトを始めたきっかけは?

Chiyo

一番の理由は、パニック障害になった当初、行動範囲が限られてしまって、僕が行ける面白そうなギャラリーが近くになかったから。それで、架空のアーティストの作品を紹介し始めたんだ。例えば、Odile Chiselってアーティスト。

この彫刻を鑑賞する際、私たちに何らかの隠れた意味を読み取らせようとか、何か感情を引き起こさせようとはしていない。作品のタイトルに「理想的な条件」とあり、右側のColinに内蔵されているAI装置に、特定の言語で私たちが毎日のように使うあるフレーズを話しかけるとすぐさま察知し、左側のZerinaが爆発する仕組みになっている。特殊強化ガラスの恩恵で私たちを危険にさらすことはなく、鑑賞者は安心して何事も起こらなかったかのように情熱的で上品ぶった優雅な対話を続けることができます。ギャラリー内での会話ならわざわざColinの目の前で話さなくても自動的にキャッチしてくれる。そうそう、このAI装置はたとえ発音が完璧ではなくても言葉を拾い上げるので、多くの日本人が大げさに舌を丸めて話しがちなわざとらしい英語を使う必要もないのです。

それからNguyen Agnailは私たちのギャラリーにとって重要なアーティストの一 人です。この写真の彼は、東京の渋谷という雑多な場所で何か物思いにふけりながらメモをとっているように見えますが、実際は紙やボールペンに見えるように作られた彫刻を手に持っているパフォーマンスです。 彼はここ数年、毎日3時間、同じ場所でこのパフォーマンスを行っていました。 あいにくギャラリーでの展示は難しく、一見、膝に毛布をかけた学芸員のようにも見えてしまうので、主旨が変わってしまうことを懸念しているらしいです。

そしてこれも。

新宿の駅から彼が普段通っている風俗店までおおよそ400mの道のりを迷路化させた作品である。安っぽく見える青の蛍光色のビニールテープが、この道にある唯一の出口までの道しるべとなってる。夜の都会に輝く華やかなネオンの光に囲まれるなか、彼を虜にしたのはこの孤独な青い光。もしくはロランバルトのA Lover’s Discourseと比較しても面白いかもしれない。

Lara

バルトの本との比較についてもうちょっと踏み込んで説明してもらえる?

Chiyo

ロラン・バルトを選んだことに特別な意味はないよ。他の小難しい作家なら誰でもよかったんだ。ただのカテゴリーとしての愛ってことをロラン・バルトと比較しただけの抽象的なメタファーなんだ。

Lara

もうひとつのインスタグラムのアカウント『@buh___bye』も変わってるわよね。人々の一挙一動のクローズアップの写真、、これらの作品に何か意味や目的はあるの?

Chiyo

僕は特定のイデオロギーに従って写真を撮ることはないよ。2011年にパニック発作が起こって以来、僕は俗に言う「写真」に対して拒絶感を持ち始めて、まともに写真を制作する気になれなかった。だって自宅から4~5メートルの距離であろうと、外へ出ることが怖くなったんだから。でも僕はいつも藁にもすがるような思いで、リハビリとして外に歩きに行ったんだ。数年経って、 やっとこの症状に慣れた頃、あるものが僕の視野にとびこんできて、シャッターボタンを押している自分に気付いたんだよ。僕はこの瞬間、自分の症状を忘れることができた。そしてその後ちょっとすると、これは、写真を撮ることでも、症状を忘れることでもなくなった。この一連の動作を繰り返すプロセスそのものにもっともっと惹きつけられるようになった。子供が言葉や動作を何度も何度  も繰り返すうちにそれらそのものの意味がなくなるように思えるのとまったく 同じ感覚だよね。

Lara

こうした一連の動作を観察してとらえるプロセスでは、心がある種の麻痺状態に陥ることもあるんじゃないかしら?自分の目の前で起きている動作だけに集中する。すると、意識して考えることを一時的に忘れてしまうわよね。

Chiyo

まさにその通り。ファインダーを通して、動いている被写体を僕の目で単に追いかけることで、基本的にすべてを忘れてしまう。動作そのものに集中することが一番大事だから。そして僕は撮影する対象物に何ら特別な執着心を持っていないんだ。撮影時の被写体に執着しているストーカーとは大違いだよ。

Lara

でも、被写体に対してそのような執着心を持つことだってあるんじゃないかしら?

Chiyo

僕は被写体自体にはまったく好奇心を持っていないよ。被写体の動作と習慣的な身ぶりに興味があるのであって、これはもっと人類学的な話だよね。

Lara

写真を撮る瞬間を通じて、不安がなくなることもありえるのかしら?だって、自分の周りの他のすべてのものは動き続けているってことに気づくでしょう?

Chiyo

僕はいつ、どこでパニック発作を起こすかわからない。一人では外に出れないし、電車や飛行機に乗ることも怖い。これが幸か不幸かはわからないけど、53階の森美術館へ行く勇気さえもない。今の季節、自宅から仕事場へ100メートル移動するのはものすごく大変。 一人で外に出かけて大自然のなかで時間を過ごすなんて拷問そのものだよ。

Lara

あなたの自宅から仕事場までの100メートルとはどんな様子なの?

Chiyo

東京の僕の自宅は家が密集した地域にあるんだけど、自宅前の道路はとても狭く、 交通信号もあまりないのにバスの通り道になってる。朝には多くのバスが行き交い、僕の部屋はバスが通るたびに揺れて、通勤者はコンクリートの歩道を革靴を引きずって駅に向かってる。目を閉じて想像してみると、兵士が行進し爆弾を落とされている気分で目覚めるような感じだよ。

Lara

それはちょっとひどいわね。

Chiyo

そう、長年パニック発作に苦しんできたことで、僕の作品と生活スタイルは大きく変わった。だから、昔にしていたようなことはできないけど、インタビューを受けることなら大丈夫。かわいい2人の子供もいるしね。たぶん幸せなんだと思う。

Lara

幸福とは妙なコンセプトで、なんだか、日が経つとともにその定義が変わり続けるわよね。私は「前向き」という言葉のほうが好き。例えば、私は前向きな人間だと言えるようにね。幸せ?時には自分のことをとても恵まれていると思うこともある。ある意味、理想的な幸福とは、仕事、妻か夫、そして子供を持つことと関連付けられることが多いわよね。

Chiyo

その通りだよ。日本では、「自由」や「愛」、「平等」、そしてとりわけ「幸福」といった深い意味を持つ言葉が、驚くほど軽々しく使われていると思う。

僕たちはいつも、何かしらの“概念”が「目指すべき人生像」を与えてくれることを期待していて、それによって心の安定を得ようとしている。

言い換えれば、僕たちは今、“混乱の時代”に生きているのだと思います。誰もが不安定で、不安を抱えている。

そして自分の場合、その不安を完全に取り去ってくれる“精神安定剤”のようなものを求めてしまうだろうな。

それから特に日本人は、「事実」そのものよりも「印象」を語る傾向が強い。

まずは対象の“イメージ”を眺め、そこからその外側──環境や雰囲気──を評価していく。

そのせいで、極めてシンプルな問題の核心にすらたどり着けないことがある。

だから、思考の質そのものはさておき、もし外から客観的に僕たちを観察したら、

「日本人って、何も考えていないように見える」――そんなふうに映ってしまうんだと思う。

Lara

この話を聞くと、テクノロジーについて考えさせられるわ。テクノロジーは人間を心ここにあらずって感じにするでしょう?帰宅する地下鉄の乗客は自分の周りの世界を見入るのではなく、電話にくぎ付けとなって、本当にくだらないゲームをしているわよね。じゃあ、日本人も西洋社会同様にノスタルジックに浸っているのかしら?

Chiyo

僕には、今の日本人がノスタルジックに浸っているかはわからないけど、文化的に抑制されてもうすでにどこにでもあるイメージのコピーをただ流用しているだけのように見えるな。

Lara

あなたにとって一番大切なことは何?

Chiyo

例えばカバンを前後に動かした時に、カバンの中へ空気がゆっくりと入っていくのを感じることができるほど、何もかもが大切だな。

Lara

特に『@detollnalica』はそうだけど、あなたのインスタグラムには口元の写真が多いわよね?ほとんどの場合、その周りにいる人が気にも留めないような見栄えのない口元よね。

Chiyo

あ、そう、口ね。目はものを見たりするのにいつも意識的に動いているでしょ。でも口はある程度無意識に動いてて、例えば口紅をつけていても、そのことばかり意識して口を意図的に動かして一日を過ごす人はなかなかいないよね。それでいて手術後の傷のように露出してて、他の体の部分はそんなことないのに内部まで見えてしまう。独特で秘密めいた体の部分って感じだよね。そして食べ物を食べるとき、一瞬口紅がついていることを忘れちゃうとか。口を開けて食べ物を中に押し込み、無防備に口をちょっと開けたままにしたりしているよね。口元の動きを説明してみるとね、例えば、口を閉じてほっぺたを動かさないと無表情な顔つきになって、当然のごとく隙のない冷たさが伝わってくる。対照的に大げさに唇をすぼめてから開くと、その人自身が敗北感を感じている一種のパフォーマンスに参加していているような錯覚に陥ったりする。

Lara

あなたの写真には、ある種狩りをしているような本質があると思うわ。意図的にストーカーっぽいそんな概念を持たせようとしているのかしら?

Chiyo

僕と被写体の間はだいたい10メートルくらいの距離があって、600~1200mmのズームレンズを使って写真を撮っている。そしてどんなものでも被写体となる可能性があると思っているからレンズを向けた後は運任せ。対象はいつでもどんな所にでも転がっていて撮影のチャンスをくれる。だから僕の写真は偶 然の賜物なんだ。

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